「〇時までに帰ってくるんだよ」
そう伝えれば、きっちり時間通りに帰ってきていたのはいつの頃だったでしょうか…。
あの頃は、「うちの子って案外しっかりしてるかも?」なんて、
淡い期待をこっそり抱いていたものです。
それが今では、門限は“ただの目安”。
連絡なしで平気で遅れることも増えてきて……
どこまで見守って、どこから伝えるべきか——
悩みながらも、ついにある日、私は口火を切ってしまいました。
また門限オーバー…見守るにも限界がきた夜
その日は平日。
夜の8時がうちの門限なのですが、時計はすでに8時15分。
LINEも電話も既読にならず、足音も気配もなし。
(これは…またか?いや、いつもよりちょっと遅いな…)
気づかないうちに、心のどこかで「まぁ大丈夫だろう」と思うようになっていた自分がいたけれど、
やっぱり、この時間になるといろんな想像が頭の中を駆け巡ります。
暗い夜道をひとりで歩いていて、もし誰かに声をかけられたら?
スマホを見ながら歩いていて、車や自転車に気づかず…なんてことも?
ニュースで見るような出来事が、まさかうちの子に…って、心配って、そういう方向にも暴走しがちで。
あれこれ想像しながらも、ただ待つしかなくて、
帰ってきたのは9時を過ぎた頃でした。
さすがに私の中で、“見守りボーダーライン”が静かに越えられてしまい——
出迎えた瞬間、笑顔は出ませんでした。
「ちょっと、門限ってわかってる?」
「連絡なしで遅れるのって、心配だし信用にも関わることだよ?」
静かに…のつもりだったけど、たぶん声は少し強めだったと思います。←自覚あり。
内心、「またうるさいって思われるかな」なんて考えつつも、
言わずにはいられませんでした。
なぜこんなふうになってしまったんだろう。
“ちゃんと信じてるよ”って態度で接していたつもりだったのに…。
でも、ふと気づいたんです。
娘にとって「遅れる理由」が、そこまで大ごとじゃなかった可能性もあるな、って。
友達とのおしゃべりが楽しくてつい…とか、
なんとなく空気を読んで帰りづらくなった…とか、
その程度のことだったのかもしれない。
“本人の中では小さなこと”って、
親からすると案外大きな心配事になるんですよね…。

繰り返される悪循環に、私の心も限界に
私の思いは届きませんでした。
その後も娘は何度も門限を過ぎて帰ってきて、LINEも既読にならないまま。
それどころか、時間はますます遅くなるばかり。
そのたびに私は、
「心配なんだよ」
「何かあったんじゃないかって思って、落ち着かないの」
と、伝え続けました。
事故にでも遭っていたらどうしよう。
暗い道で何かトラブルに巻き込まれていたら?
この世の中、何が起こってもおかしくない。
私の中では、危険や不安が次々と膨らんで、
それを口にせずにはいられなかったのです。
だけど、娘から返ってくるのは、ぶっきらぼうな「別に」「わかってるし」という言葉だけ。
次第に私は、伝える → 伝わらない → 不安になる → さらに伝える、
という無限ループに飲み込まれていきました。
気がつけば、娘の表情からは笑顔が減り、
私の声には、焦りと苛立ちが滲むようになっていました。
本当はただ、無事に帰ってきてくれればそれでよかった。
本当はただ、「大丈夫だよ」の一言が聞きたかっただけなのに。
「どうしてわかってくれないんだろう」
「私はこんなに心配しているのに…」
——そんな思いばかりが心をぐるぐると回って、
ある夜、娘の帰りを待ちながら、静まり返った部屋の中で、私はふと立ち尽くしてしまいました。
どうしたらいいの?
何を言えばいいの?
どう接すれば、娘はちゃんと私の気持ちを感じてくれるんだろう?
答えは見つからず、気づけば時間だけが淡々と過ぎていくばかりでした。
「心配しすぎ? 口うるさい?」——親としての“ちょうどいい”は、本当に難しい。
子どもが思春期に差しかかると、距離感がぐっと難しくなります。
心配だから声をかける。でもそれが「うるさい」「わかってる」と返されてしまうと、「じゃあ何も言わないほうがいいのかな」と悩んでしまう。
正解が分からないまま、それでも大事に思っているから向き合おうとする。
そんな親の葛藤や迷いって、実は誰もが抱えているものなのかもしれません。
大切なのは、「迷っていること」そのものが、子どもへの愛情の証だということ。
完璧な親でなくても、迷いながらも対話しようとする姿勢は、きっと子どもに伝わっていく——。
そう信じて、今日もまた向き合う毎日です。

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